2011年06月22日

第10回青年の船 35周年

昭和51年6月18日 今から35年前 総理府青年の船事業において班長として、初めて海外に行きました。 第10回青年の船は特別でアメリカの建国200年を祝う年で行先はアメリカでした。事前研修など含め約2カ月の事業です。私たちの船はみんなで「昭和咸臨丸」と命名し船内活動や寄港地活動を活発に行った。今は海外に行くことは、簡単ですが、35年前では、青年の船に選ばれ乗船することは本人にとっても、周りからみても特別なことであった。国は青年に日本から外に出て海外から日本を見ることや、全国から集まった、さまざまな職種や個性のある青年たちが船内生活をとおしてそれぞれを磨くことを友情を育てることを目的にしていた。1組3班です。男2班女1班編成で全30班。私は4組12班の班長です。団員は20歳から25歳、班長は概ね30歳から35歳、他に渉外という通訳、英会話ができる方が各班1名で25歳から30歳以下の募集だったとおもいます。
 当時国立能登青年の家に勤務していた私は所長から推薦され県に応募、不合格で独身の応募者が選ばれました。子どものいる班長は過去乗船していないとの理由です。所長は翌年また推薦してくださいました。結婚しているや子育て中とかは班長としての資質のハンディにならない。環境が許せばどんどん海外に行くべきだと、再挑戦するよう後押ししてくださいました。そして試験に合格、第10回の船で初めて子持ち女性班長久保洋子が乗った。うれしいことに副団長の松下倶子先生も子どもがいる初の副団長でした。すこし世の中が変化してきたのでしょうか。まあ、松下先生とはその後もご縁あることになっていきました。

 平成23年6月18日 まさに35年を記念として神戸ポートピアホテルに35周年の集いを開催しました。大震災後だから中止をする話もありましたが、東北の班長から今だからこそ、みんなと出会って元気をもらいたい。この一言で開催しました。第10回の船は5周年に集まることを決め解散した。そのためには、班長は毎年当番制で在郷地で班長会を実施した。そのうち班長の伴侶の方も、同県内の一般団員の方も班長会に顔だしする。それをしながら各班員と連絡を取り5年ごとのイベントが続いた。こんなことが35周年まで開催できた力です。がしかし一番は船でともに生まれた絆が根底にある。この会はみんなの利害の関係が生じない会である、むしろ国の事業として参加させていただいたことで個人では体験できないこと、また日本人としての誇りを見についたこと、しっかり事後活動をして地域に役立ちたい、仕事に活かしたいその思いが強くなったといえます。そして何より班長という30人の大人の人間関係が良かったことでしょう。もう60歳後半が多い、リタイヤし第2の人生の方がほとんどです。そして船に参加したことがその後の自分たちの人生の生き方の素となっている団員や班長が集まってくるのです。

 今回パネルフォーラム【明日に向かって】をプログラム。パネラー4人の方々の思いや人生や共感することもありです。青年時代がすぎ老年にむかった私たちが何を糧にこれから進むのか、まだ現役のパネラーの声ですが、確実にこれからを見据えているのはさすがです。頑張れる間はがんばる、がんばれないとわかったら、別の道を考え無理をしないこともあり、できることをしっかりやりたいそれも同感。

 東北の方々もご参加、「ココロトドケタイ うちわ」に激励のメッセージを書き福島に持って行ってもらいました。がんばろーバッジ「心ひとつ がんばろー日本!」2011.3.11 のバッジを胸につける。200円の義捐金となります。被災地からの参加者は復興支援特産品を紹介していただくなど、をテーマにした記念の集いは懇親会はもとより、参加して良かったという気持ちをただよわせ閉会です。

 すごいことに アメリカに在住している大井(渉外でした)さんが今回参加して写真係を担当してくださいました。帰国後メールで撮ったもの送信してくれます。とても楽しみです。私は写真担当がいるということで1枚も撮らずに帰ってきました。  

Posted by 久保洋子 at 12:13

2011年06月09日

声を出す楽しさ

   金沢市では女性学級に5万円を出して市内公民館55か所が事業を実施しています。
  味噌蔵町公民館では1万円の学級活動費を補助して、公民館婦人部の大きな事業となっています。
  入会費は300円です6回の事業お知らせの葉書代金となっています。女性学級には各公民館ごと
  にそれぞれ名称があり味噌蔵は「さつき学級」といいます。

   本日は今年度の開級式で57名の学級生の一人として参加しました。年代別では50代4人、
  60代13人、70代33人、80代7人です。まさに生涯学習は70代の生きがい、地域づくり
  の中心は70代なのだ。 実際、60歳代も70歳以上もみなさん若く見え実年齢なんて言わなきゃ  わからない。

   さて、今年度のテーマは「ぬくもりのある安心・安全に暮らせる地域づくりと女性の和をめざし   て」となっています。 開級式のあと第1回目は「声を出す楽しさを体験しよう」ソプラノ歌手 
  石川公美さんが講師です。
  声を出すときに大切なこと 3つについて、1 呼吸 2 発声 3共鳴 そして歌うとは訴えるが  語源とのこと。したがって腹式呼吸で歌うこと。普通私たちは口で呼吸し喉で歌っている、今日は鼻  から息を吸い、すぅーと吐く(呼気圧) 呼吸=エネルギー の練習です。姿勢が大切だし腹式呼吸  はむずかしい。お腹が膨らんだりへっ込んだりがわかる。ホントにエネルギー、汗かきかきです。
  発声はあ・い・う・え・お 口の開け方、たのしくイタリア語でも発声。共鳴=骨格です。顔の筋肉  日本人は20%しか使っていないとのこと、イタリア人は40%使うそうです。
  
   石川先生は、今日はみなさん「声を出す苦しさを体験しよう」になったんでは   と、ユーモアたっぷりにお話しながら歌う基本を指導してくださいました。そしてみんなで歌うため  に、ちょっとしたゲーム等で一体感を作ることも入れながらです。
  4曲みんなで歌いましたが、文部省唱歌「ふるさと」を景色を頭に描きうたう。また「金沢望郷歌」  は桜橋や香林坊など固有名詞が歌詞にありますがこれらは桜橋というその漢字をしっかり頭に浮かべ  て歌うようにと。
   口先だけで歌うのは聴いている方に何も残らないのである。私は風邪をひいては喉をやられたり、  選挙では声を嗄らしたり、お腹から発声していないからである。しかし腹式呼吸むずかしい。
 



   

Posted by 久保洋子 at 23:17

2011年06月03日

震災派遣 ……  その3




中浜小学校の津波あと 
中浜小は海から約200メートル。地震直後、「津波の予想到達時間は10分後」とテレビから、即、校長は2階建て校舎の屋上への避難を指示し、校庭や教室にいた児童 教員や保護者、地元住民を含め約90人が屋上に避難しました。屋上の運動会用具など保管してある用具室で一晩過ごしたが翌朝、自衛隊のヘリコプターで全員が救助された。(テレビにも取り上げられた)学校はしっかり残っているが目の前の団地の住宅は基礎のみで跡形もないのである。松林が消え海岸線が見える。
 グランドは津波にのまれた車でいっぱい。車はさまざまな破損状況ですが自衛隊により1台1台きちんと並べられていた。


 
 中浜小学校では海抜を上げるための盛り土をしてあった。また海岸線と垂直に建ち、津波を切り裂くようにして抵抗を少なくした構造である。さらに海に面した側とその反対側に窓をたくさんつくり、廊下の幅も広くして、津波をそのまま(建物の中を)素通りさせる構造になっていた。オーシャンビューという景観に配慮した海岸に平行する建物が多い中に、海に近いから特に津波対策ができていたことに感心しました。
 しかし地震が来たら建物から離れる、津波は高台にがマニュアルでしょうが、校長は地震による津波注意報を受け、「緊急時は校舎の上と用具庫」を事前に津波の避難計画を確認していたと伺いました。そのことで子どもたちを守ることができたといえます。
 今回、児童の命が守られましたことには、優れた校長(指導者)の適切な決断と実行があり、それを支える教員、大人たちの協力があったのではないかと思います。
マニュアルと臨機応変について改めて考えさせられる。
  

Posted by 久保洋子 at 12:17

2011年06月03日

震災派遣 ……  その2


 山元町には金沢のほか愛知県豊川駐屯地から、特科連隊、普通科連隊、や春日井駐屯地の後方支援連隊など1,000人を超える隊員の皆さんが派遣されていました。
派遣隊員は被災地の復興を願い「がんばろう!みやぎ!」のステッカーを胸に、町内全域で、救助活動や行方不明者の捜索、がれきの撤去、給水、避難者への炊き出し、物資輸送、診療所の開設、仮設入浴施設の設置など、様々な支援活動を行っています。
 
 避難所では薬剤師や准看護師の資格を持つ自衛官が対応し、保健師の派遣は福井県から交代できています。今はインフルエンザなど感染症の対応が多いとのことでした。
全国からの災害支援のための専門職の働きは医療チームや消防、警察、水道技術、などのほかに社協の方々もボランティアコーディネートで派遣(京都からでした)されていることを知り、多くの専門力が結集し復旧に貢献している様子が現地に来てよくわかりました。

役場内の現状は被災者が相談に訪れている。庁内表示はホワイトボードであったり、用紙に手書きのものであったりです。激励のメッセージが貼ってある役場内1階にはFM放送「りんごラジオ」が活躍していました。被災者に届ける情報量はたいしたものです。パーソナリティの方は休みなしで励ましの言葉をおくり続け頑張っていると伺いました。町民には唯一の被災者に対する情報源でもあり全国放送に頼れない地元の力です



 山元町は、西部が山地(森林)、中部が台地(畑・果樹園)、太平洋に面した東部が低地(水田)となっている。町内は大きく北部の山下地区、南部の坂元地区、海岸地区の三つに分けられ、低地はいちご、山側がりんご畑、太平洋側はホッキ貝の漁業など盛んな町でした。町の64%の可住地域が被災したことで今一番急がれるのは仮設住宅の設置ではある。グランドで建設中でしたが入居の基準等で高齢者世帯や一人暮らしの方優先で仮設集落ができることも懸念されます。

 これからのコミュニティの再生は町行政に任せるのみではなく国や県は復旧・復興対策を一日も早く対応する強い政治力を求めたい。また、山元町には義捐金の支給もまだだとという。被災地の方々に希望を持てるよう政府は責任をもって対策を進めて頂きたいものです。
 実際に見聞きして、私たちは被災者のために何ができるのか、税金でない、自分たちの力でできる、支援をも引き続き考えていかなくてならないと思いました。
 避難所の校庭で非番の方だそうですが若い女性自衛官が子どもたちの中で、一緒に遊んで、話をしたりする様子も見ました。心のケアも大切です、実際子どもたちに笑顔があることにほっとしました。
  

Posted by 久保洋子 at 11:53