2014年07月21日

私の20代

  19日 石川県看護連盟の若手看護師グループ主催で研修会を開催され、昨年に続き私と不破県議とが講演講師として招かれました。
私は看護連盟の顧問でもありますので、今回は自分自身の20代30代を振り返るとともに、その時代の看議連盟の活動のことを混ぜて、話をしました。そのために ちょっと自分のことながら過去を思いおこすことに、いろんなことがあった、詳しくは話す時間がないので、かいつまんだ中みになったが 時間きっちりと話を終えることができ、ほっとした。自分のことを語るととかく長々と説明するようになるので、その辺は気を付けた。
私の20代

  さて 昭和18年 私は満州で生まれ 昭和21年両親と1歳になる前の弟と家族4人で金沢の母の実家に引き揚げてきました。金沢が戦災にあわなかったことも幸いしていた。この21年には日本看護協会が設立されています。 井上なつゑ初代看護協会長が昭和22年第1回参議院議員選挙に当選しています。ただ、その後は井上氏第3回第4回と落選。第5回は井上氏(前協会長)と林協会長と調整ができずに2人立候補し、結果共倒れ。この苦い経験から 政治活動できる政治連盟が必要ということで日本看護連盟は34年に組織化 誕生した。今年で55周年を迎えています。
皆さんはご存知でしょうか、看護代表 石川県出身 石本 茂 元参議院議員は 昭和40年~61年の21年間、国会議員として看護界の労働環境を良くするために働いた方です。私の母も看護婦(師)、実母は富山日赤看護学校の卒業生。石本先生は先輩であり、私の学生時代は看護協会、連盟の役員だったのか石本選挙に一生懸命であったことが、思い出されます。
その石本先生参議院議員当選の昭和40年は 私は 国立金沢病院(現医療センター)の看護学校を卒業
21歳 国立金沢病院に勤務 (自宅から通勤)
24歳 富山婦中の准看養成所の教員に転勤  (准看生が金沢病院に実習に来ており専任教員にと白羽の矢) 
25歳 結婚 (志雄町在住) 勤務先 公立能登総合病院に就職し、正看進学コース 開設準備にあたる。( 結婚生活3か月で 6カ月間の東大医学部内で文部省の専任教員講習会に参加。学生闘争激しい頃で医学部はその拠点でしたし、時に休講などもあった、教授が外に出れない状況とか、学生運動がエスカレートしていく頃でした)
26歳 病院内施設を使用しての 公立能登総合病院看護学校開校1期生入学 翌年は新校舎が完成。 長男出産
27歳 長女出産 (年子です。当時は産前産後6週間の休暇でした。長女は産前休暇の3日目に破水しておよそ1カ月 も早く生まれた。まだ実家にも里帰りしてないし、あわてた。 能登有料道路今のさと山街道はまだ開通して無いですよ。タクシーで国立金沢病院に、超かっとばしで行く、もう車中陣痛がひっきりなしで 痛みがやまない。また奇跡的に病院の玄関までは保ったが分娩室手前でもういきみがくる、タクシー運転手さんはストレッチャーを持ってくるは大活躍で、旦那さんですかと間違われるくらいで後日大笑いです。頭が出かかっている感触が自分でもわかるので分娩室入るなり生まれた。体重は2500グラムあり、1カ月も早めに生まれたが未熟児でないことで気持ちも落ちつくが、なんと赤ちゃんは体中産毛だらけで しわしわな顔で、娘に悪いが生まれたてはかわいい顔でなかった)
年子の子育ては大変、おんぶにだっこの生活です。おばあちゃんも大変ですし、長女は日中は近所の方が見てもらい 私は仕事に復帰した。私は夫の両親との同居は当初から望んでいたし、仕事を続けるには助かることでした。おばあちゃんはとても良い人で世間で言う嫁姑の戦いはあまりなく、大勢or体制に影響ないことは私が目と口をつむった。 しかしながら世の中は 「家つき、カー(車)付き、ババ抜き」という 同居に抵抗感がある女性が増えてきたころでした。
28歳 二人の孫守をおばあちゃんに託して、また電車で七尾市までの通勤と帰宅も遅れることもあり、結局は羽咋市に開設される国立能登青年の家に勤務することになる。これは看護教員としての資格は活かされないことが残念で辞めたくなかったし能登病院も辞めることに反対して下さった。家族との話もかみ合わなく、最終的にはおじいさんが議員を使って病院長に談判して私を辞めさせた。この時は仕方がないと
思った。みんなが無理しないような生活を選んだわけです。では新しい職場は国立能登青年の家とは何をするところか、初めて聞いた青年の家とはよくわからなかったが、 準備室ができており、建物は柴垣の海から離れた小高い所に建設中でした。
私は健康な方でしたが、二人目出産後から 腰痛がひどくなり、足はしびれ我慢できないくらいになっていました。診察の結果椎間板ヘルニア
と診断され国立金沢病院で手術をうけた、当時は2カ月入院、退院後は半年休職した。入院中は長男は久保家 長女は金沢の実家が面倒見たのです。
              
さて、昭和40年代当時は20代女性は結婚・出産等のライフイベントがつまっている、まあこれが普通の人生でした。私は結婚・出産、子育てで勤務先を3回変えたことになる。私的には手術し療養するアクシデントもあり、自分の家庭環境を維持するうえで、家族との折り合いも大切に思いました。しかしながら、私は看護の仕事を辞めたくないというのは常に生き方の根本にあった。つまり柔軟な選択をして仕事を続ける道を選んだ。

つづき30代は波乱万丈? 次回にします 。
          

            



Posted by 久保洋子 at 23:59

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