2014年07月28日

私の30代

前回の20代のつづきです。
国立青年の家は昭和47年6月に開所式を迎えました。それまで我慢していた腰痛が、もう立っているのも辛い状態になり、椎間板ヘルニアの手術をしたのでした。退院後も、無理はできないと家族は気を配ってくれました。義母は孫を可愛がってくれましたが、青年の家に復帰するため長男は保育所の途中入所手続きをして、彼は次年度に入る三歳未満児クラスを2度の体験となった。保育所の玄関ちかくなると泣きながら
行きたがらず、本当にこっちもせつなかった。 
s51年 32歳 総理府第10回青年の船 班長 6/18~8/9 53日間 アメリカ・メキシコ訪問。これは所長の推薦、家族の理解で、子持ち女性班長として全国で第1号です。松下倶子副団長も初めて既婚者、子どもが小学生でした。船事業10年目にして独身でなければならないという前提を私たち2人が崩したといえます。今も副団長はじめ10回生は交流が続く中です。松下先生はその後女性初の文部省生涯学習局社会教育官、国立信州高遠少年自然の家所長、独法国立青少年教育振興機構理事長など歴任し現在は恵泉女学園学園長で大変尊敬する大好きな方です。
s52年 33歳   夫 安宅産業金沢支店から松村物産に転職。安宅産業破綻する。1975年に発覚したカナダにおける石油精製プロジェクトの失敗にて、当時10大総合商社の一角を占めていた安宅産業の経営破綻した。金沢支店勤務の夫たちには寝耳に水でした。最終的には、1977年に伊藤忠商事に吸収合併されることで解決をみたが、金沢支店勤務者も伊藤忠には2名、残りは地元企業等ばらばらに。 夫は私たち家族を優先し地元の企業への道を選んだ。
s53年 34歳 義母くも膜下倒れ3カ月後に死亡、66歳でした。 長男小2 長女小1
s54年 35歳 私は普通自動車免許とる   
s55年 36歳 「石川少年の船」指導員として乗船  その後子宮筋腫で貧血もあり、貧血治療し子宮筋腫の手術をする
s56年 37歳 義父死亡(胃がん・肝硬変)  核家族となる
s58年 39歳 「石川少年の船」指導員として2度目乗船  志雄町母親クラブ会長
s59年 40歳 石川県母親クラブ副会長

 義母の倒れたのは、私が2泊の出張から帰った日。子どもの達の運動会予行演習の日で見に行っててきたと言っておりました。いつも子どもたちで風呂に入るのに、この日はなぜかおばあちゃんと一緒でした長湯だったかもしれません。私が次で風呂からあがった時、娘からおばあちゃんがあたま痛いからアイスノンを持って行ったが、今もあたま痛い痛いと言っているよと。義母は高血圧、すぐに様子を見にいき、危ないと直感。救急車を呼ぶが、直前に志雄病院に搬送で出たという。病院まで我が家から数分ですから、病院に直電話して、すぐこっちに救急車に来てくれるよう連絡する。隣町に住む夫の姉にも連絡。救急車が来るまでさっと入院の用意をしたがまだこの時は義母はしっかりしていた。ところが病院のエレベータの中でいびきをかきだした。看護婦さんは先の救急患者に係っており、勝手ながら看護婦資格ある私と姉は失禁しない様にすぐ導尿した。あっという間に意識不明。脳溢血といわれたが1週間後に意識が戻る。半身不随も、言語障害もない。こっちがびっくりでした。脳溢血?違う。
この1日が貴重な日となる。会話ができたことで家事全般、義母中心なので、私には分からないことが多かったが引き継ぎができたことは奇跡というかおばあちゃんすごい私たちに言いたいことを言うために目覚めた。この目覚めで義母は金沢大学病院に転移したが検査中に意識がなくなり、それっきり話すこともなく3か月後に亡くなる。あのまま志雄病院にいたらどうだったかと、よく話し合ったものでした。当時は意識不明の患者には家族のほかに付添看護婦をつけなければならない時代でした。主に夫と姉と義母の妹が交代に付いた。私はおじいさんと子供の面倒をみないといけないので付添は時どき。しかし私は年休をフルに使い、職場の理解と融通がありなんとか乗り越えたが、長引いたら、この状態はやっていかれないとみんな思ったのでした。
 なんといっても54~57年3年間は義母の突然の死が家庭生活を一変した。

私は仕事と家事で手いっぱいでした。小学校のPTAの役員もやめた。またバス通勤では時間のロスが多いし、買い物の不便があり、自動車の免許を取ることにする。まだ女性の運転免許を持っている方は少なく、ようやく高校卒業する女性が少なからず自動車学校に通っている位です。若くない35歳には指導教官たる方々は厳しいもので、本当嫌になるくらいでしたが、夏休み中は子どもは実家で見てもらい、自動車学校の終了時は駅まで送迎バス利用し、夫の迎えで帰宅する日々、何としても免許を取るという意気込みが強かった。我が職場は私が免許を取ったことで、女性陣が久保さんが合格するくらいならと、次々と免許を取るきっかけにもなったのですよ。
 義父にとっては連れ合いに先立たれたショックは大きいものでした。 胃術後の体力消耗はあるし、日中でもお酒を飲むもので母は水で薄めた酒一升瓶を台所に置いていたが、義母の死後私は水の量をひそかに増やした。ご飯を食べないので栄養失調状態にもなるし、仏壇に参りながら線香で髪を焦がしたり、たばこの灰の始末や、さらに子ども用のお菓子まで食べて子どもが怒るし、トイレの不始末や生活に支障がでてきたなど、大変でした。入院した病院は4か所。次々とトラブルやら、病状の進行で病院を変わらざるを得なかった。
 子供たちは急にカギっ子状態で、学校から帰ってきたときは赤ちゃんの時から見てくれた方が頼りで本当に助かった。私は留守番の仕方、 電話のかけ方、遊びに行きときのルールとか急に祖父母のいない生活になった子どもには教えなければならないことがいっぱいあるし、この生活に慣れるより仕方がないと言い聞かせた。 実家の父は仕事を辞めるようにいいましたが、しばらくだけみんな協力し我慢すれば、子どもはちゃんと成長していくし、何とかなるから。また、金沢と違い 田舎だから仕事を辞めたら、希望の再就職先なんてないかも。という、私の理由を通し 仕事は辞めないで続けた。3年間は家事と子育てと仕事に上手に時間を使い 地域の活動は、できるようになるまでやらないとした。
 
  もうちょっと つづく

Posted by 久保洋子 at 01:16

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